2022年8月14日日曜日

【考察】私が撮りたかった女優展vol4をみて感じたこと

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私が撮りたかった女優展vol4を観に行ってきた。撮影したフォトグラファーのトークセッションもその日の夜に行われていたのでそれも一緒に聞いた。

個人的に印象に残ったのはMiss Beanさんが三吉彩花を撮った写真だった。まず「女優」というコンテキストを咀嚼して、それを通して自身の感じていることや表現したいことを、被写体を通して伝えようとしいる。伝えたいことが明確にあり、それに対して写真を構成している。明確に「表現」をすることが行われていたと感じた。

程度の問題かもしれないが、他のフォトグラファーが撮った写真は「女優というコンテキスト」にフォーカスしたというよりは「人物そのもの」にフォーカスしたように見えた。適切な言葉は思いつかないが前者が「構成されたメッセージの表現」だとするならば「構成された現象の記録」というのが近い気がする。

このように感じるのは知覚と表示されたものの距離の問題だと思う。前者はより距離が遠く、後者はより近い。その間に挟まっているのは思考とその整理だと思う。写真の面白いところは構造的に「記録」的なものを内包するから、前者の場合も知覚と直結された表示が行われることだと思う。被写体自体の表現は、ダイレクトに鑑賞者の知覚に届く。

写真は「記録」と「表現」が同居することができるメディアだと感じた。ただ、「記録」は必ずその中に内包され、「表現」は必ずしもその中に内包されるわけではないという面白さがあると思った。


2022年8月1日月曜日

【日記】写真を鑑賞することについて

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最近は色々な展示を見に行くようになった。最近だと、都美術館や近代美術館でやっているような大きなものから、小さなカフェやギャラリーでやっている小さなものまで。 

 自分も写真を撮っている人であるからこそ、撮り手としての「批評的な視点」になりがちだったりする。批評っていうのは必ずしも肯定的な視点ばかりじゃない。批判的と言うわけではないけれど、分析的な視点で見ていった結果、場合によっては受取手にとって否定的な表現に拠った分析になってしまうことがある。 

 作品を鑑賞する際に「自覚的な意図の表現」だけではなく、「無自覚な認識の表象」を観て撮ることがある。この「無自覚な認識の表象」は作品の制作側の意図とは別のところにあるからこそ扱いが難しい。「いや、そんなつもりで作ったわけじゃない」となりがちだったりする。この「無自覚な認識の表象」はときに、鑑賞者を傷つけたりすることがある。

それを読み取ったとき、どう言う気持ちで作品と向き合っていいのかわからなくなる時があある。 

 行き場のない「無自覚な認識の表象」に対する批評をぐっと心に止めなければいけない。なぜなら、一番大事なのは「その人が何を表現したいか」だからだ。でも、本人の意図していない「無自覚な認識の表象」を感じないと表現者として、それに自覚的になれないし、言葉にすることも大事だ。「あぁ、自分は嫌なやつだ。」と感じながらも。だからこそ悩ましい。

 自覚的に「自分が作るものは何か」と言うところに対して、向き合わなければいけないと思う。「無自覚な認識の表象」をできるだけなくし、「自覚的な意図の表現」へ向かう努力をすることだ。もちろん、「無自覚な認識の表象」は無くなることはない。それは、それぞれがそれぞれの人生を生きているから当然のことだと思う。でも、努力をすることはできると思う。 悩みながらも言葉にすることを大事にしたい。