ストリートフォトでの肖像権って話題になることは多いのだけど、意外と自分自身の基準を明文化している人ってそんなに多くないイメージがあったので、備忘録的に現在の自分の基準を書いておこうと思う。
人を写さなくも街の外形(ハード)は撮影できるけれども、人が写っていない写真は街を撮っているとは言えないと思っている。中野正貴さんの「TOKYO NOBODY」で映された東京が異様な風景に見えるのも、「今際の国のアリス」の誰もいない渋谷が表現として成り立つのも、「街には人がいるものだ」という前提があるからだと思う。
記録的な価値を写真に求めるのならばよりいっそう、人が写っていない街は「街を」とるとは言えないと思う。なので、少なからず「街を撮る」という文脈で写真を撮るのならば、「人を撮る」ということがセットになる。「街を撮る」ということの詳細な意味に関して言えば、ジェインジェイコブズの都市論だったり、ルイオールデンバーグの「場」の話だったり、いろいろな文脈で語れるだろうと思う。例を出して言及を始めればキリがないので、今回はその話はしない。
街で人を撮るスナップ写真には、声をかけて撮影する方法とそうでない写真(いわゆるcandid photographyとよばれるもの)があるが、これは全く別の性質を持つ写真である。声をかけるのであれば、少なくとも、その写真に内在する「記録性」というものは損なわれる。また、個人にフォーカスを当てているものであればそれでいいかもしれないが、人々の郡や集合を撮影する場合は画角にいる全ての人に声をかけた上で、その人の状態を保ったままにするのは明らかに現実的ではない。そういうわけで、かならず「声をかければいい」という結論に至るのも些か乱暴だと思う。
とは言え、「人」をうつす前提として「街」を撮ろうとしたときに、肖像権やプライバシーに関わる問題についてはきちんと考えていなければいけないし、安易に人が写りこんでいる写真を全て「盗撮」と言ってしまうのはあまりにも乱暴だと思うからこそ、きっちりと他人に説明できないといけないと思っている。
■ パブリックなスペース(公道/公園等含む)の場合
- 特定の被写体にフォーカスを当てる場合は、正面からの写真(顔が映ること)を避ける
- 特定の被写体にフォーカスを当てる場合は、できるだけネガティブな文脈での写真を避ける
- 写真の主題になっておらず、かつ、明らかな映り込みの場合は問題ないとする
- 正面で写っている場合も特定の人物にフォーカスが当たっておらず、人の群として写っている場合は問題ないとする(信号で待っている人々等、その写真の主題がそこにいる特定の個人に依存していない場合)
- 公共の場でのパフォーマンスの場合は、それを明確に「見せるための活動」としているため、問題ないとする
- パフォーマンスでの活動の場合でも政治活動や、デモ等、思想、心情をもとにした活動の場合は、批判・賛同等の意味づけをできるだけ避けるように写真の主題を置き、キャプション等でもできるだけそのようなことを避ける。
■ 参考
- デジタルアーカイブ学会 肖像権ガイドライン
- 調査されるおいう迷惑 -フィールドに出る前に読んでおく本 (宮本常一/安渓遊地 著)