言葉にするという事は一度考えるのを留めるという事だ。最近では、「考えるのを留める」という事を「思考停止」というようなんだけど、あんまりこの言葉の響きが好きじゃないのであえて使わない。と断りをいれるのも、これはtwitterかなんかでそのように書かれて流れてきた言葉だからだ。(ここら辺の記憶は曖昧で、きっかけがどこだったかははっきりとわからないので出元は明示しない。)
で、twitterで流れてきたのも原因の一つなんだけど、そのときちょうど三次元空間の座標系について少しおさらいをしていたことがきっかけとなって、妄想が大仰な事になっってしまった。
つまり、どういう事かというと、相手にものを伝えたり、何らかの形でアウトプットするときは、その時なりの結論を下さなくてはいけなくて、それは考えられなくなるというよりは、いったん考える事を留めるという事なのだということだ。
三次元の空間座標を表す方法はワールド座標と、オブジェクト座標があって(詳しくは説明しない)相互に変換できるけれど、少なくてもその座標系の原点は決めてあげなくちゃいけない。地図を描くときにどちらが北であるか、どこが地図の中心(原点)であるかを決めてあげなくちゃいけない。それがとても似ているから、この言葉が強く頭の中に残った。
本質的な中心点はなく、ただ任意に決めてあげた原点に対してすべてが相対的に決まっていく。本質的な結論は存在しなくて、ただある目的に遭わせた論点に対して、相対的に話の内容を決めていく。少なくともなにかを話したり、書き留めたりするときには、考える事を留めていて、それをちゃんと意識しなくちゃいけない。逆に、言葉にするときは、考える留めるということを、ちゃんと覚悟していなくてはいけない。
そして、これはちゃんとした文章をあまりかけないことに対する大仰な言い訳でもある。つまり、”今ここ”に書いてある事は”常に”途中である。という打算的な考えである。
で、この妄想が少し膨らんで、デカルトの「我思う故に我あり」にたどり着く。というのも、いろいろなグラフなどに現れてくる直交座標系の概念を確立したのがこのデカルトだからだ。(今日読んだ本に、直交座標系の事をデカルト座標系呼ぶと書いてあった。とてもこじつけだ)きっとデカルトは直交座標系のことを思いつき、現実の相対的で、連続的な世界に頭を悩ませながら、なにも基準を見つける事ができなくて、最後に「ハッ」となって。よく教科書で見かけるあの言葉を思いついたのだろう。と、想像していたわけだ。なるほど今日の俺はとても文化的だ。
こんな事を、ランニングしながら書こうと考えていた。文化の日に、まるでお手本のような文化的な思考である。
もっとアホな感じに書こうと思っていたのに、存外にドヤ顔な日記になってしまったけど、デカルトは正直よく知りません。すいません。ここに出てくるデカルトは、黒髪長髪でひげを生やし17世紀の格好をしのアホ面な俺です。そのうちちゃんと勉強します。(ほんとにするかは気分次第)
参考文献:どこかの誰かのTwitterポスト
写真:代官山の近くのよくわからない裏道より。
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