
お腹いっぱいでお風呂に入れない時間を使って。
練習。USB 30分くらい。雑になってしまった。
【Mars Lumograph/2H】
楽しく生きたい。
僕の友達に絵描きがいて、これがときたまどうも僕の承服しかねるような考え方を主張する。 たとえば彼は一輪の花をとりあげて、「ほら見ろよ。 実にきれいだろう?」 と言う。 これには僕もまったく賛成だ。 ところが彼は続けて 「僕は絵描きだからこの花の美しさがわかるが、科学者の君ときた日にゃ、まず第一にこれをバラバラにしてみようとしたりするから、せっかくの花もてんで味気ないものになっちまうんだ」 と言ったりする。 これはいささかとんちんかんな言い分だと思う。 そりゃあこっちは芸術家の彼ほど美的に洗練されてはいないかもしれないが、彼が見ているその美しさというものは、僕を含めたあらゆる人間に通用するもののはずだし、僕にだって花の美しさはよくわかる。 しかも同時に、この花について彼が見ているものよりずっとたくさんのすばらしいものが、僕にはちゃんと見えるんだ。 花の中の細胞を僕は想像できる。 それもまたある美しさを持っているのだ。 僕はここでたった1cm四方などという限られた次元の美しさだけを言っているのではない。 もっと微小な次元にも美しさというものがあるのだ。 そういった次元には、細胞のこみ入った活動やさまざまな過程がちゃんと存在している。 そもそも花の色合にせよ、昆虫をおびきよせて受粉するようにしむけるために次第に進化したもので、つまり昆虫たちに色というものがちゃんとわかるということだから、これだって実に面白い。
そう見てくるとまったくさまざまな謎が生まれてくる。 たとえば単純な生きものにも僕らみたいな美的感覚というものがあるのだろうか? 科学の知識はこういった実に面白い疑問を通して、花の神秘さや、胸のときめくようなすばらしさ、そしてこの美しさへの畏敬の念といったものをいよいよ大きくするものなのだ。 科学は花の美しさにますます意味を与えこそすれ、これを半減してしまうなどとは僕にはとても信じられない。
「困りますファインマンさん」(p68)
R.P.ファインマン / 大貫晶子[訳] 岩波現代文庫