昨日少し無理をしてバンドの練習に行ったせいか、体調を大きく崩してしまい予定を返上して1日家に過ごすことにした。今日はミーティングの日だったが、一日いかないだけでもいろいろと大きな変化があるようだ。出来るだけ参加するようにしていたのもあって、現場にいるということの重要性を身にしみて感じている。(現場にいないということはどういうことか、という事を感じるきっかけにもなっているわけだが。)
することがないせいか、しばらく止めていた日記を更新したくなった。
不思議なことに、素敵な事をしているなと感じている人や、素敵な感性をしているなという人の書く文章を素敵だと感じることが多い。
その文章に共感ができるということでもなければ、その内容をそのまま同意できるというわけでもない。ただ、その人のに綴り方というか、語るプロセスや語る言葉の粒度がとても好みな場合が多いのだ。多分そういう人とは、物事を考える粒度や感じ取る粒度が近いのだと思う。
もちろん、その素敵な人を指して自分と一緒の感性をもっているなんておこがましいことだし、自分はその人たちの文章の魅力にいつも圧倒される。
その人を素敵と感じるのは、自分の居合わせなかった場所にその人がいたからであり、その人の文章を読むと、いつだって同じように景色を見れない自分はなんてつまらない人間なんだと、そう感じてしまう。
あぁ、良い文章を書こうとすると、文章は途端につまらなくなる。良い動きをしようとしすぎると、体の動きが硬くなったりするように。だんだん慣れていくことが大事だ。良い文章を書こうと思わないようになったタイミングが、良い文章をかけるようになるタイミングなのかもしれない。
思い返すと、こういう文章はなんども書いている気がする。そして思い浮かべる人物は一緒なわけだから相当自分もその人の文章が気に入っているようだ。思い浮かべる人物が一人また増えるたびに、きっとまた同じように文章を書くのだろうと思う。
追記:
今日は、ここ4年ほど一緒にプロジェクトに関わっている同い年の仲間が、ミーティングの行われていた集会所の近くの神社で祝言を挙げていて、みんなでそれを見に行ったそうだ。誰も見ていないだろうここに書くことでもないが、自分は行くことはできなかったので、改めて心よりおめでとうという言葉をここに綴っておきたい。
2018年4月22日日曜日
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