2020年12月15日火曜日

【雑記】 ポートレートについて

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ポートレート写真をはじめてから、いろいろな被写体の方を撮影するようになった。

撮影を通じてよりルッキズムについて考えるようになっている。写真を撮ると言う行為は対象を否が応でもビジュアライズする。美しいとは何か、素敵とはどういうことなのか、心に止まるものが一体何なのかという問いから逃れることはできない。それは人物以外のものを撮る場合でも本質的には同じことだと思うが、人物を撮ることでより感じるのは、自分自身もその「人物」というカテゴリーに属している物体の一つだからだ。

被写体になっていただく方を探すようになってからとても感じるのは、被写体になっている人の多くは、若くて容姿の整っている(ある種のテレビ的な)女性が多いと言うことだ。ポートレート中心の展示に行った時もそう。その9割り、下手したら全てが若い女性の写真の場合もある。

時々見かける「可愛い子を撮る」という言葉にはとても抵抗感を覚える。その言葉は、何かをとても選別しているような気持ちになるからだ。だからこそ、そう言う言葉は慎重に使っていきたい。

多様性そのものはあまり大事ではないと思っているし、多様なだけでは時にはとてもつまらないことがある。本人の好きなものを自由に撮れば良い、あくまで趣味なんだからと言うのは大前提としてあるので、個別のことにとやかく言うつもりもない。けれど、そうはいってもどこか窮屈さや居心地の悪さを感じるだけの偏りがあるように思えてしまう。自分もポートレートを撮る人間として、その感情は手放しに肯定できないのは確かだと思っている。

だからこそ、自分が人を撮ろうとなったときに、その被写体を自分が選ぶということになればとても悩み深い。他の誰かが決めたような美しさに対して、自分にとって美しいとは何か、素敵と感じるのはどう言うことなのか、心に止まるものが一体何なのか、それとじっくり対峙し向き合って、時にはだれかのそれを否定することもあると思う。

これは自分を見失わないための戒めのようなものなのだ。誰かの美しさに乗ってしまったらきっとそれまで写真の中にいた自分の感性は失われてしまうだろう。自分を失うと言うことの恐ろしさと対峙しながら、その苦しさとはちゃんと向き合っていきたいと思う。