2021年11月23日火曜日

友達について

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 いつからか友達というものについて考えることが億劫になっている自分に最近気がついた。

友達とは一体何なのか。誰かの定義でいえばきっと自分の友達は少ないんだろう。誰かの定義で言えばもしかしたら自分の友達は多いのかもしれない。自分は友達と思っていたけれど、そうは思われていなかった。そんなことは往々にしてあることだ。

自分は、誰かに友達だと思われていたらその人の友達でありたいと思う。あの人は友達じゃないなんてことは、何というか悲しいことな気がする。まぁ、友達とは何なのかということは置いておくとしてだ。

最近気がついたことといえば、そもそも、友達という言葉で線をくくる必要はないのだ。この人とは飲みに行く。この人とは、スタジオに入ってバンドをする。写真を撮らせてもらった。毎日挨拶をする。そんな、不揃いな関係性が無数にあるだけなのである。


そういえば、自分には親友が一人いる。なぜ親友だと言い切れるかというと、「俺たち親友だよな」という話をしたからだ。べろべろに酔っ払っていた。親友というも実際にところ何だかわからない。でも間違いなく言えるのは、「親友」という関係性が定義された瞬間が、そこにあったということだ。

2021年11月9日火曜日

【日記】2021.11.09

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 自分は人と出会うためにポートレートをとっているんだと思うんです。出会いって恋愛目的だったり、ビジネス目的だったりすると、後を引くというかなんというか、ちょっとだけ面倒だったりすることもあるじゃないですか。でも写真が目的地なら良くも悪くも後腐らない気がするというかなんというか…..気持ちの良いすっきりした出会いになる。そんな気がしています。

デザインとかそういう視点があれば写真はそれなりに整うと思うし、技術的にあれこれするのはそれなりに好きだし、きっと写真が上手くないと会えない人もいるから、上手くなりたいとは思っています。

でも、本質の部分ではどんな写真を撮ったということよりも、誰を撮ったということが大事なんだと思います。これはその人が有名かは全く関係がなくて、自分がかっこいい!素敵だ!と思える人。もちろんジェンダーも年齢も関係ない。

誰かに写真を撮りに会いに行って、「また素敵な人に出会ってしまった」、「この人、素敵でしょ!」それが詰まるところ自分にとっての人物写真なんだろうと思います。


2021年9月9日木曜日

【日記】2021.09.09

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渋谷ズンチャカ!が終わってまだ一週間経っていない。ずっと家の中にいるからなのか、流れる時間と感じる時間がとてもチグハグで、どこか心地が悪い。

 今年の渋谷ズンチャカ!はオンライン開催になった。オンラインになって一つ自分がやりたかった企画は実現できたものの、もう一つの企画はうまくいかなかった。雨でどちらにせよ中止だったとはいえ、最後まで作りきれなかった。今まで毎年欠かさず形にするまできちんとやり切ってきただけにとても悔しい。

アーカイブ映像作りがあるのでもうひと頑張りかな。
 来年はどうしようか。

今年やった企画の続き、ちょっと拡大してやりたいな。
あと、写真をもっともっと頑張りたい。学ぶことはまだまだたくさん。

2021年6月17日木曜日

【日記】2021.06.17

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マクルーハンによれば、メディアは身体性の拡張である。

写真を撮るという行為をするにあたって、カメラと写真という二つの「メディア」に触れることになる。カメラは記録する「メディア」であり、写真は表象をする「メディア」である。人間の身体性に沿って喩えるならば、カメラは概ね目の拡張であり、写真は声の拡張であると言えるのではないかと思っている。

写真を人に見てもらうという行為は自分の声で話しかけているようなものだと思う。そこにあるのは、語りなのか、歌なのか、シンプルなメッセージなのか。大きな声なのか、小さな声なのか、遠くへ届く声なのか。

自分は何を伝えたいのか、どう伝えることでそれがきちんと伝わるのか。それをしっかりと意識して、自分の声を出していきたいと思う。

2021年5月29日土曜日

【日記】2021.05.29

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 自分は人物を撮っているのだけど、正確にいうとその人のスタイル(体系ではない)とかパーソナリティを撮りたいんだよなぁ。人物を使って絵作りがしたいわけではない。

そもそもの出発点がエスノグラフィックな意味合いのスナップの延長線上としての人物写真な訳で。映画のシナリオを作るような創作としての写真ではないのよね。

友達も写真に撮って、その上でその時、友達ではない人を撮る。という行為は、自分にとっていつも降りる駅とは違う少し遠くの駅で降りてみるようなもなんだろうと思う。

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以前、大学のゼミでいろんな服を着る(装う)ことで、普段は足を踏み入れにくい場所への抵抗感もなくなるのではないかという卒業制作をしていた人がいた。

ある種それに近い「装い」としてのカメラだ。カメラはその「装う」を少しだけ手助けしてくれる。続けるうちに、それは完全なる通行手形にはならないということにも気が付く。

でも、それがあるとないとでは大きな違いがある。扉を開くための一つ目の鍵くらいにはなり得るのだと信じて、写真を撮り続けるのだ。