2022年8月1日月曜日

【日記】写真を鑑賞することについて

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最近は色々な展示を見に行くようになった。最近だと、都美術館や近代美術館でやっているような大きなものから、小さなカフェやギャラリーでやっている小さなものまで。 

 自分も写真を撮っている人であるからこそ、撮り手としての「批評的な視点」になりがちだったりする。批評っていうのは必ずしも肯定的な視点ばかりじゃない。批判的と言うわけではないけれど、分析的な視点で見ていった結果、場合によっては受取手にとって否定的な表現に拠った分析になってしまうことがある。 

 作品を鑑賞する際に「自覚的な意図の表現」だけではなく、「無自覚な認識の表象」を観て撮ることがある。この「無自覚な認識の表象」は作品の制作側の意図とは別のところにあるからこそ扱いが難しい。「いや、そんなつもりで作ったわけじゃない」となりがちだったりする。この「無自覚な認識の表象」はときに、鑑賞者を傷つけたりすることがある。

それを読み取ったとき、どう言う気持ちで作品と向き合っていいのかわからなくなる時があある。 

 行き場のない「無自覚な認識の表象」に対する批評をぐっと心に止めなければいけない。なぜなら、一番大事なのは「その人が何を表現したいか」だからだ。でも、本人の意図していない「無自覚な認識の表象」を感じないと表現者として、それに自覚的になれないし、言葉にすることも大事だ。「あぁ、自分は嫌なやつだ。」と感じながらも。だからこそ悩ましい。

 自覚的に「自分が作るものは何か」と言うところに対して、向き合わなければいけないと思う。「無自覚な認識の表象」をできるだけなくし、「自覚的な意図の表現」へ向かう努力をすることだ。もちろん、「無自覚な認識の表象」は無くなることはない。それは、それぞれがそれぞれの人生を生きているから当然のことだと思う。でも、努力をすることはできると思う。 悩みながらも言葉にすることを大事にしたい。

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